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日本の文化に興味を持ちたくても、どうしても少し入りにくい印象がある。
どうしても「国」の文化という見方をすると、その国の歴史や宗教にフォーカスをあてて語らないといけないので堅苦しくなるのは否めない。 けれども、「日本文化(または日本美術)」に接しておくことは国際社会に出たときに、自国を紹介するときでもとても役に立つし、いったい「日本とは何か」という問いは、「自分とは何か」という問いにも繋がるし、そういった学びが、実は学校で「習う」という「受動的教育」よりも、自ら「学び」を深めていく「生涯教育」につながっていくものだと思う。 日本の美術品に接してみることが一番大切なことなので、美術館に足を運ぶことも大切だが、文化史や美術史は文献を探して、知識を入れておくのが、興味を持つための一番の早道のように思う。 なので、本を紹介したいと思うが、まずは「日本史」をおおざっぱに把握しておく方が理解が深まる。今更社会人が学生のときの歴史の教科書読もうとしても、気が乗らないのは当たり前なので、自分は日本史を復習したいときは(自分は高校のとき世界史選択だったので日本史は中学校のときの知識しかないけど)漫画で復習する。この漫画は意外と教科書読むより、わかりやすいし、だからと言って、浅くしか書かれてないかというとそうでもない。大枠を把握する程度であればとても扱いやすいと思う。 http://www.amazon.co.jp/dp/4087479978 漫画で歴史全体の社会背景を把握した後に、この 辻 惟雄さん著の「日本美術の歴史」が自分としてはオススメ。 http://www.amazon.co.jp/dp/4130820869 カラーだし、文章も読みやすい。最初の日本美術史入門者には自分はこの本を薦めたいと思う。 「歴史」というのは筆者の立場や環境によっても、見方にバイアスがかかってくるもの。韓国との歴史認識の問題もそういったことが原因の一つだと思う。 だから、日本美術史においても、一つの文献を読んだ後に、他の書物にも目を向けて行った方が知識としては確実なものになってくると思う。 自分は、 ・小学館から出ている「日本美術館」(高価だけれども、、、) http://www.amazon.co.jp/dp/4096997013 ・カラー版日本美術史(これも辻さんが監修だけれもど。。。) http://www.amazon.co.jp/dp/4568400651 ・日本造形史 http://www.amazon.co.jp/dp/4901631128 などで、確認している。 一つの本を一度しっかり読んでおけば、後は基本的に大幅に歴史が変わることはないので(筆者のニュアンスや見解は異なるかもしれませんが)、その後は読む速度が上がると思います。 曲:高木正勝 #
by artnagasaki
| 2014-05-06 12:48
先日、福岡へ言って二つ展覧会見てきました。
一つは、 太宰府にある九州国立博物館で開催されている「近衛家の国宝 展」。 もう一つは、 大濠にある福岡市美術館で開催されている「法隆寺 展」。 こういった、少し日本史を学んでおかないと、あんまり良さがわからないような展覧会は、少し行きづらさを感じる人もいるかもしれないが、個人的には見方としては ①作品そのものの形や色の美しさを見る。 ②自分の持っている歴史的「知識」と照らし合わせながら見る。 大きく分けてこの二通りの見方があるように思います。 美術館や博物館は正直1回や2回行った程度では、あまり魅力はわからないというのが自分の感想。10、20回何となく足を運んでると、何げに見てきた作品がベースになって、いつの間にか作品の良さが見えてきたり、感動したりしてくる。 だから、純粋に造形や色彩だけで、「知識を通さずに」見て、好き/嫌いの判断をしたり、良い/悪いの判断をすることはとても大切なことで、自分の目や感性を鍛える訓練のようなものに自分は感じます。 ただ、それだけだとなかなか他者と作品の批評をしたりすることは難しかったり、「知識がないと」見えにくいものがあったりする。 法隆寺展の目玉になっている「夢違い観音像」は白鳳文化の影響を受けている仏像だけれども、これは知識があれば、白鳳文化の仏像だということは一発でわかる。白鳳文化の仏像の特徴は仏像の顔が「童顔」であるということは、日本美術史の中では常識。仏像は大体は時代によって形や作り方にも変化がある。だから、こういう知識の視点を入れることで、もっと作品に対する見方は立体的になってくるように自分は思います。 見方の話しはさておき、 まず、近衛家の国宝展。近衛家は藤原家(藤原道長とかの)の直系の血筋なので、藤原家の財宝を(日本の上流階級文化のものを持ってる)所持している。自分が「近衛」の苗字を名乗っている人をイメージするのは、 戦時中に総理大臣になった近衛文麿。公家の出だということは何かで読んだけれども、まさか藤原家の直系の末裔だったということは知らなかった。 藤原家というと平安時代はほとんど藤原家の文化だった。藤原家は色々と謎が多いイメージがある。大化の改新のときに活躍した中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を賜って藤原鎌足となったのが「藤原」姓の始まりと言われている。 なんで藤原と名乗り始めたのか?藤原という姓の持つ意味なんかは、未だ謎だということだし、渡来人なのかどうなのかももっと詳しく知りたいところ。 展示されていた作品ですが、さすがに国宝が多く興味深いものもあったのですが、個人的には書が多く、道長の直筆のものとかもあって、歴史的資料としては面白かったですが、美術的視点で見るものがやや少なかった印象。ただ、ビジュアル的なものの印象としては屏風絵などにしても「かざり」に対する意識がやはり日本人は強いように感じます。 屏風絵の人を書いている場面にしても、人のプロポーションとかよりも、着物の柄がやたらと強調されているし、畳を描いているところも、畳の端の柄をやたらと強調して描いている。 そういう「かざり」の要素が強調されるのは日本文化の一つの特徴のように思います。 法隆寺展の方は、やっぱりこの法隆寺が栄えた時代というのは、「日本」という形やイデオロギーのようなものはまだ確立しきれてないような印象を感じるけれども、その「国」の形を作っていこうというパワーは感じれるようなイメージでした。 仏像も、確か538年?くらいに日本に来てるけれども、この法隆寺の日本仏像もガンダーラ系なのかグプタ系の仏像なのか、自分は形を見ても判断つかないような形をしていると思う。 ただ、現代、日本で目にする仏像と、この法隆寺の仏像(夢違い観音とか)は明らかに仏像の衣装とかも異なっていて、知識なしにこの仏像を見たら、自分は異国の像と思ってしまうかもしれないと思った。 展覧会について長く話してもダラダラとなるので、この辺にしますが、福岡の美術館、博物館はどちらも常設展示室がなかなか充実してるので、企画展が面白くなくても常設展で楽しめるから、結構オススメです。 オススメの曲 just the two of us 色んな人が演奏してるけど、この曲は本当良い曲だと思う。 #
by artnagasaki
| 2014-05-06 11:37
長崎県美術館の常設展示室で行われている「渡辺千尋展」を何度か見に行った。何度か見に行きたくなると言ったほうがいいかな。
長崎とゆかりがある版画家ということで、長崎県美術館で開催しているみたいだけど、自分はこういう作家はとても好きで、デザインの仕事と画家としての仕事同時並行でされている作家は、やはり絵画オンリーで作品制作している作家とはまた違う雰囲気やパワー、経験を持ってる印象をうける。 版画だけでなく、装丁やポスターなども展示されていたが、やはりこの70年代頃のものは「時代の影響」を大きく感じるし、その時代のパワーが作品制作意欲を後押ししてくれている様な嫉妬を自分の作品意欲が湧かない言い訳程度に感じてしまう。(笑)でも、そんな勢いのある時代だったんだと思う。 横尾忠則のような構成、色使いは70年代の匂いを今の時代に吹き込んでくれるようなオーラを放っている。 しかし、この70年代への憧れは自分の主観的な憧れだから、現代の若者すべてが好印象を受けるとは思わないけれども。 しかし、このグレービングという技法はとんでもなく大変な作業なんだけれども、ほとんどの版画作品グレービングで難なく作ってしまっている渡辺さんは本当、超人的だな。 執筆活動もされてたみたいだし、本当、制作することが生活の中に溶け込んでいたんだろう。 そういう境地に憧れを持ちながらも、そういう世界に一瞬で行くことの不可能さも理解しているので、気長に一歩ずつ進んで行きたいなと思いながら、渡辺千尋の画集をパラパラと捲っている次第です。 #
by artnagasaki
| 2014-05-06 10:49
伊藤若冲と京の美術展行ってきました。
最近は、伊藤若冲が人気で取り上げられくことが多くなり、 この展覧会も、なぜか最初に「伊藤若冲と・・・」と若冲を押すところに 自分はあまり好感もてませんが。。。こうもしないと客も集まらないんだろうな。 さて、行ってきての感想ですが、結構若冲の絵だけでなく良い作品が見れたなという感じでした。 入って最初の方は屏風絵が続くのですが、それらに描かれている「金雲」が桃山時代から江戸時代の日本の絵画を象徴するような表現で、この日本人的アイデアと金箔の豪華さに感心させられました。 西洋絵画は遠近法で描かれているので、視点が定まってくようなトリックが仕掛けられえているのですが、日本の屏風絵は西洋絵画の遠近法のようににフォーカスが定まるようなトリックにはなっていない。 だから、西洋絵画を見る感覚で見ると、なんかダラダラと当時の人々や街の風景が描かれているように見えるけど、その点をうまく解決しているのが「金雲」じゃないのかなと思う。 金雲が絵の半分、いや半分以上を占めている屏風絵もある。 金雲を描くことで、細々した背景を描くことを抑えている。 金雲と金雲の間に風景や人々を描くことで、視点を誘導させている。(西洋絵画的な一点へと収束する感じではなく。) 金雲で画面を区切ることでアニメーション的(時間的、場面的)効果を持たせている。 そういった効果を作ることができるこの「金雲」は画期的なアイデアであったんじゃないかと今回見て改めて思った。 そして進んでいくと「菊花蒔絵十種香箱」というものがあり、これは「香道」のアイテム。香りを当てる遊びを昔の人は楽しんでいたようで(今もやっている人いるみたいけど)。その工芸品の技術はやはり日本が誇れる技術に感じました。 そんで、そのとなりには「薬玉図」と「合せ貝」こういった風俗を知ることができたのもよかった。 さらに進んで、ひときわ自分の目を引いたのは「ちょうちょう踊り図屏風」。 仮装した人々がユーモラスに描かれたこの作品には、現代の日本アニメに通ずるものがあるように感じたし、何より見れば見るほど楽しくなる。日本のコスプレ文化はいったいいつから始まったのやら。 その次は「書」のコーナーになってました。 書は全然わからないのですが、「紀之集下断簡 石山切」藤原定信 著 は、スピード感があり軽やかでありながら、何か文字の美しさを感じさせる目を引く作品でした。この作品もでしたが宗達の下絵に書が書かれているものにしても、草が混ざった?和紙のようなものに書を書くというような文化があったようで、その「書と絵」の作り上げるリズムのようなものがとても美しかった。 他にも良い作品がたくさんあったのですが、挙げればキリがないので、若冲にいきます。(笑) 若冲は「鶏」の絵で有名で、今回出品されているものも「鶏」の絵が多かったのですが「伏見人形図」のような可愛らしくて、優しさを感じさせるような作品は興味深かった。 とにかく若冲という人は、一つの絵の中に、自分の尽くせる限りの技巧で描いているような印象を受けます。悪く言えば、しつこさがある。けれどもそのしつこさがしつこく見えない程の技術がある。特別出品されていた「鶏図押絵貼屏風」なんかは鶏一匹一匹の羽の色やポーズを変えて、筆の濃さ、濃淡なんかも変えている。これがアマチュアになると見せつけているようで「嫌らしく」なるんだろうけど、若冲が描くとそう感じない。逆に、見るものを飽きさせないパフォーマンス精神のような器の大きさのようなものさえ感じる。 あと、静と動、繊細と大胆、大と小のように画面の中での抑揚やリズムの付け方が天才的。 「虻に双鶏図」なんかは後ろの鶏はかなりシンプルで省略的な描き方をしていながら、前面の鶏の羽は丁寧に丁寧に描かれているそのテクニックは、自分的にはきっと若冲は常に「鑑賞者を飽きさせない」という気持ちを持って作品制作に挑んでいたんではないかと感じた。 線に躍動感があるし、(「鶏図押絵貼屏風」の鶏の尻尾とか)かなり線に対して「自由」を獲得している人のように感じました。最後の方に若冲の弟子の若演の作品が2点程あったのですが、若演は若演なりの技巧やポーズに対する面白さへの追求があるんですが、若冲と並ぶと「躍動感」や若冲の絵に対する、線に対する自信のようなものに圧倒されている印象を個人的には受けてしまいました。 そんなこんなで若冲と京の美術展みなさんもご覧あれ。 #
by artnagasaki
| 2014-04-11 23:44
本日から、新たにブログを始めます。
今回のブログの目的は、「地方の文化向上」や「教育の可能性」を自分なりに考えながら、 情報発信していけたらと思っております。 自分の考えとしては、日本という国や世の中を考えたときに、もっと「地方」が活性化していく必要があるのではないかと考えています。 大学進学や就職によって、地方の若者が地方→都会へ出ていくことは、一つの選択として何も悪いことではないと思うのですが、そこにメリット/デメリットがあるということ踏まえるべきだし、今の日本に足りないものは、モノ(物質)やお金というもんじゃなくて、新しい「価値観」を作り上げていくことじゃないのかなと自分は思っています。そう考えたときに、地方と都会の二元論でなく、地方は地方なりの価値観の形成や、幸せの見つけ方があるんじゃないかと思っています。そして都会に出たら、もう地方には帰らずに都会での生活に順応していく生き方もあるかもしれないけれども、都会に出た人が、地方に新しい風を吹かせるような力を与えることも、これからもっともっと大切になってくるとも思っています。 今の時代、資本主義の波にただただ流され続けて行って、お金を稼ぐことで幸せが手に入る。とか、欲しいものを買えば幸せが手に入る。(最低限の収入やモノが必要なのは承知だし、資本主義社会すべてを否定するわけではない。ただ今の時代を考えると、資本主義が行き過ぎていると感じてるから。)という考えは、どこか「幸せの側面」しか捉えきれてないように感じてしまう。 世の中、バランスが大事だと思う。何が良いとか悪いとかって言うより、行き過ぎたものが悪くなってしまう。 学校教育でも、いつの間にか「順位」や「点数」が大事なものとして扱われる世の中になってしまった。数字のシステムの中にしか勉強のやりがいを見つけられなくなってしまったのか。 学校で学ぶものの外に、魅力的な知識や経験があったりするのに、学校教育の中のものだけで「勉強」を語ってしまう世の中になってしまった。 その結果、生活の中で、家庭の中での会話は薄っぺらいものになってしまった。もっと読んだ本の話し、自分の住んでいる地域の将来の話し、話しのネタは沢山あるはずなのに、そういった学校教育の外にある知識のものに目を向けることが少ない世の中になってしまった。そうすると会話も薄っぺらいものになる。そうすればコミュニケーション能力も低下する。自分のことだけしか考えなくなってくる。 人間一人一人が、「どうすれば住みよい街になるか、暮らしやすい世の中になるか」考えて語り合うことは、気持ちの良いことのはずなのに、コミュニケーション能力が低下しつつある今、そういった話しは「めんどくさい」話しでしかなくなってきている。 もっと、人は面白く生きることができるはずだと思う。人はずっと「文化」を通して、人と交流してきた。「文化」のレベルを上げるために、「教育」を受けてきた。 「文化」は今の新自由主義的資本主義経済の中(小さな政府で、企業の競争力を活性化させて社会を発展させるという考え方、要するにお金を稼ぐことが最優先という考えになりやすい。簡単に言うと。)では必要のないものと考えられるかもしれない。「文化」は「非合理」を含んでいる。「合理性」を求める新自由主義の社会には不必要とされるかもしれないけれども、地球も自然も人間も「非合理」を含んだ世界や生き物だと自分は思う。 そう考えたとき、「地方」で出来ることがまだまだあるし、むしろ、地方から新しい価値観を提供することもできるのではないか。今の情報社会で「都会」の情報を得ることも容易だし、行き来することだって難しいことではなくなった。そういうように社会の環境は地方にとっても変化しやすい状況になっているのに、これがなかなか変わらない。それは人が変わってないし、もっと言えば、人の考え方が変わっていないからだと思う。もっと、新しい「方法」や「アイデア」を実現させていくべきだと思う。 その点を、踏まえた上で、これから「文化」「芸術」「教育」がどのような方向に向かうべきか、考えていきたいと思う。 #
by artnagasaki
| 2014-04-01 11:00
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